経営者自伝

次世代の後継者と社員たちのために

経営者の自伝は、社史と同レベルの重要性をもちます。

なぜなら経営者の想いと過去の行動の中に、社員たちは自分の現在と未来を見るからです。

数冊の自伝から、本文の一部を抜粋しましたので、ご覧ください。

まだ自伝の制作実績が少ないため、社史からの抜粋も含まれます。なお固有名詞は変えてあります。

原稿はすべてOrabiグループが取材・執筆したものです。



業種:廃棄物収集・処理

 

通うはずの大成中学校に登校することもなかった。学業を中断して働いたのは七人いる兄弟のなかで澄男ひとりだった。ところが中学3年となるはずの昭和28年の夏、ある女性が澄男の家を訪ねてきた。小学4年のときの担任教師だった。2学期から登校して、中学校の卒業証書をもらえ、話は通すからとのことだった。奇遇なことに、その女性教師は、澄男が形だけ在籍する中学校の担任教師の奥さんだった。かつて自分のクラスで級長を務め、疎開のあと教室にもどらなかった澄男のことをずっと気にかけていてくれたのだった。(一部抜粋)


業種:不動産開発・賃貸

 

「本人は在宅か?」の声に、わたしは隣室の机を離れ、憲兵の前に立ちました。教練で教わったように直立し、着帽時なら敬礼ですが、その時は無帽でしたから15度の礼をしました。憲兵は20歳を過ぎたくらいのい若者ですが、体格は立派で背も高く威圧的でした。「きさま、現在何をやっているのか?」と聞かれたので、来年の受験にそなえて勉強をしていますと答えました。すると「現在の日本の状況をわかっているのか、この非国民めが!」の罵声とともに、わたしは強烈なビンタをくらって倒れました。それでも、すぐに立ち上がって直立不動の姿勢に戻りました。これも教練で体が覚えていたことですね。(一部抜粋)


業種:機械部品製造

 

突き動かされるように菊夫は行動に出た。早朝、大阪工場の中宮門の前に立つと、出勤してくる従業員1人ひとりに「おはようございます!」と、腰を折って挨拶の声をかけ続けたのだった。同じことを数日続けたという。「どちらの人ですか?」――何日目かに、資材部の係長に声をかけていただいた。当時、外部の業者との窓口であった資材部に、守衛から「ヘンな男がいる」と連絡が入ったのだった。もちろんそうなることは、菊夫には計算済みのことだった。「なんでも結構です。仕事をいただけませんか」率直に、菊夫は頭を下げた。突拍子もない人だ、しかし試してみてもよかろう――係長の胸のうちは、そのようなものであったろう。鋳物のバリ取りの仕事をいただくと、菊夫は喜び勇んで帰り、その晩は深夜まで自分でバリを削り、磨きに磨いた。(一部抜粋)


業種:ガスセンサの開発・製造

 

ある日の勤務中に、プロパンガスの爆発による悲惨なニュースを知った。当時、プロパンガスによる爆発事故は社会問題になりつつあった。高山の胸に義憤が湧きおこり、なぜか突然、金属酸化物を還元して導電性を変化させる高校時代の理科実験を思い出したのだという。「よし、おれがガスセンサを作ってみせる!」そう直感したのだった。その熱い想いをかかえたままトラックに乗り、なかなか行動に移せない日々にフラストレーションを溜めていたのだろう。会社で大ゲンカをして帰宅した高山に、妻は泰然と「辞めたらいいじゃない」と答えたという。ケンカはきっかけに過ぎなかったが、それを機に、高山は行動を起こした。ガスセンサの開発を目指し、第一歩を踏み出したのだった。(一部抜粋)


種:建築木材の加工・販売

 

当時は、どの業界でも同様であったが、気がつくと外部から入ってきた過激な左派勢力が先導していた。労働争議は、社員たちが動くというよりも、ほとんど外部からの勢力が社員たちを煽っている状態だった。当社と社員の関係は普段は良好であったが、毎年春闘の時期になると、製材工場のほうはピリピリした空気になっていた。それが、何と約15年間にわたって続いたのである。日々、迫りくるプレッシャーと強いストレスのため体調を崩し入院したこともあった。これ以上、製材工場を存続するのは耐えられなかったが、「父が営々と築き上げてくれた事業を廃止するわけにはいかない」という、社長としての責務、お世話になった取引先や顧客にかける迷惑などを考えると様々な思いが巡り、やはり工場の閉鎖には踏み切れないものがあった。(一部抜粋)


業種:料理学校

 

イカナゴは春先に瀬戸内の海で獲れる小魚で、それを佃煮にした釘煮は、兵庫県地方の家庭料理として有名です。久しぶりにガスの火を見て、スタッフたちと涙まじりでイカナゴを炊きました。20㎏ほどを釘煮に仕上げ、学校再開の印とばかりあちこちへ配ったのでした。学校を再開したものの、震災の被害が影響して、戻った生徒は半分くらいだったでしょうか。被災した生徒から、払い込んだ授業料を返してほしいと連絡があって、応じたこともありました。また職員にも復職できない人がいました。震災の爪痕は、そう簡単に完治するものではありませんでした。(一部抜粋)