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『縛られた巨人』神坂次郎

…ふたたび田村家にやってきた熊楠は、

「チョボ六に行水つかわせてやって貰えませんか」

 チョボ六というのは、熊楠が抱いてる汚らしい愛猫のことらしい。猫の行水を乞われて、田村家ではまたまた吃驚した。いまだかつて猫に行水をさせたことはない。で、田村家の姉妹総がかりでテンヤワンヤの大さわぎの末、ようやく猫を洗い終わった。ところが、いっまで汚らしかった灰猫の毛並が、つやつやとした《ハンサムな白黒の斑猫に》生まれかわったので、田村家の姉妹たちは歓声をあげた。

 熊楠の来訪と"猫の行水”は、この後もしばしば繰り返された。ところが妙なことに熊楠が抱いてくる猫が、三毛猫であったり時に虎猫であったりした。

 熊楠の猫好きはロンドン以来のことだが、おかしなことに飼い猫の名は、いずれもチョボ六であった。田村家ではこの風変わりな、猫たちと同居している未来の聟殿の訪問に苦したが、熊楠にすれば、猫が行水しているあいだだけでも松枝と一緒にいられる、という計算があってのことだ。…『縛られた巨人 -南方熊楠の生涯- 』(神坂次郎、新潮社)より一部抜粋

 

【コメント】

 偉人は奇人と紙一重、そう言いたくなるひとコマです。南方熊楠は在野の粘菌研究者で、発見した新種の粘菌に『ミナカテラ・ロンギフィル』の学名を戴き、昭和3年には昭和天皇を田辺湾神島に迎え、粘菌標本を進献しました。抜粋部は、田村家の娘松枝と婚約したものの婚礼まではデートも相成らず、猫の行水を口実に松枝に会いに通ったという逸話です。昭和37年にふたたび南紀白浜に行幸された天皇は、「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思う」と御製を詠まれました。熊楠は奥行きの深い偉人であり、愛嬌のある奇人でもありました。

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