幸せと空気椅子とエッセについて(「空気椅子」理論)

 幸せとは、心が穏やかで安定している状態をさします。たとえプライベートジェット機で世界を駆けめぐる大富豪であっても、心が安定しない人は不幸せです。

 もちろん若い時は誰もが激情に駆られ、刺激と興奮を求めます。若いエネルギーは一時的に、それらを幸せだと勘違いします。そしてそうした幸せは、一瞬だけのまぼろしだと知る時がくるのです。

 

 つぎに、たとえ話をします。

 海水浴の浮き輪みたいに、空気を入れてふくらむ椅子があるとします。大きくふくらむと見事に安楽椅子の形になって、身を抱きかかえてくれるのです。たとえ荒れ野に身を置こうとも、その椅子があれば心は穏やかです。それが、幸せのイメージです。空気を入れるといいましたが、その椅子に入れるのは、じつは空気ではありません。

 

 人生の途方もなく長い日々にあって、生きることの機微や醍醐味を味わうとき、その味わいは質量となります。この理屈を科学的に実証することはできません。神の存在を実証できないのと同じです。それでもなぜか、生きることを深く味わったとき、その味わいは質量となって、椅子を少しずつふくらませるのです。

 ところが、人生の日々を味わうことなく、流されるかのように過ごしていると、椅子はちっともふくらみません。身を抱きかかえてくれる椅子にまでならないのです。なので、たとえば40年生きてきた2人が並んでいても、それぞれの椅子のふくらみ具合には差が生じるのです。幸せの度合いは、名声や財産とは関係ありません。

 

 エッセは当初、自伝や自分史を書くための簡便手法として案出されました。しかしながら「空気椅子」理論をもってすれば、エッセという手法に、自伝や自分史よりさらに有意義な目的をもたせるべきではないか、との考えに至りました。その目的とは、なにあろう椅子のふくらませであり、すなわち幸福感の醸成です。そして、より平易な取り組みツールとしての「発芽レター」が生まれ、エッセ倶楽部というプラットフォームの創設となったのです。立派な自伝を書き上げなくても、エッセの芽を集めるだけで、それらの芽はやがて質量をもって、人それぞれの椅子を徐々にふくらませてくれるにちがいありません。

 自伝の完成という、目に見えるゴールにたどりつくことは素晴らしいことです。あるいは、そのゴールに固執することなく、エッセを書くことで椅子を膨らませたい、そうした取り組み方もあるはずです。目的が自分にとって有意義であるかどうか、それが大切なことではないでしょうか。

(中野富生)

 


  中野富生 略歴

 

  1953年、和歌山市に生まれる。

  京都市立芸術大学美術学部を卒業後、学校講師を含め多くの職業に携わった。

  大手専門学校で思考力研究所の研究員となり、のち研究所長を務める。独自の授業メソッド(現 Orabi授

  業メソッド)を構築。また同メソッドをベースに、教員を対象にしたOLT研修を実施した。

  出版業界への転身ののち、Orabiグループの名称で事業体を立ち上げ、教育と出版の領域で新サービスの

    創出を続けている。

 



*写真左は思考力開発のオリジナルテキスト、写真右は制作に携わった自伝の一部。